「梅川」 上
あらすじ
落人のためかや今は冬枯れて 薄尾花はなけれども 世を忍ぶ身の後や先
新口村より大坂へ養子に行った忠兵衛は傾城梅川と情を通じた挙げ句、 他人のお金を使い込んで梅川と駆け落ちをしてしまう。 代官所からの厳しい詮議の中、故郷新口村へ向かい忠三郎が家へ一夜の宿を得ようとするが、 忠三郎は留守であった。忠三郎の家人より、
此所の親方孫右衛門様の息子殿、大坂へ養子へ行かれたがその先でけんせん(傾城)と言う物を たんと買うて挙げ句の果てには、他人のかねを使い込んで、そのけんせんを手に持って逃げたとやら 手に掲げて走ったとやら、代官所からの厳しい御詮議・・・
と聞かされる。大坂から来たということで家人に怪しまれるも、懇ろな者だと取り繕い忠三郎を呼んでもらう たすきを外してかけていく女房、梅川と忠兵衛はしばし足を休めることになる。
(梅川)必ず必ず死ぬるとも私も一緒におまえの手にかけて殺して下さんせ。 (忠兵衛)何んの愛想が尽きやうぞう、此の忠兵衛も諸共に死ぬるは故郷の土
やがて忠兵衛が遠くの野道を見ると歩いてくるのは、忠兵衛が父孫右衛門であった。 この世の別れとは言いながら代官所から探索される身の上、名乗りを明かすことも出来ない身の上の忠兵衛。
夫婦は今をも知れぬ命、百年の御寿命過ぎて後、未来で孝行いたしましょう
と陰から暇乞いをするのであった。
見所
「将門」や「戻り橋」と違い、大立ち回りなどは無いが、常磐津の得意とする心中物の作品である。傾城というものを知らない家人の、傾城を表現する様子が見物である。
「梅川」 下
あらすじ
大坂の義理と故郷の恩愛の道は二つに別れども血筋ばかりは一筋に・・・
野風の吹く道を歩いてくる孫右衛門は老いのためかよぼよぼとおぼつかない。 高下駄の鼻緒が切れてどうっと転ぶ孫右衛門だが、忠兵衛はもがこうとも出て行けぬ身の上。 梅川はあわて走出でて、孫右衛門を抱き起こす。下駄の鼻緒をすげ替える梅川に孫右衛門は何故このように 親切にして下さるのかと問いかける。
はあい私はオゝそれそれ旅の者、私が舅の親父様、丁度お前のお年ばへで格好も生き写し 他人にする奉公とは、さらさら以て存じませぬ。お年寄った舅御様の臥し悩みの抱き抱え 孝行は嫁の役ご用に足て何ぼうかうれしうござんす
と、名乗れぬながらも舅への孝行をする梅川。孫右衛門そそれとなく察しつつ尽きることの涙を隠しつつ、
アァ嬉しふござる嬉しうござるが腹が立ちますわいノ・・・ 世のたとへにも言う通り、盗みをする児は憎う無うて、縄かける人が恨めしいとは・・・
と心情を吐露する。孫右衛門の口より養子先の養い親・妙閑も牢に入れられたということを、陰で聴き驚く忠兵衛。
エゝ憎いやつぢゃ、憎いやつぢゃと、憎いとは思えども、私や矢張り可愛うござると泣き沈み分けたる血筋ぞ哀れなる。
と涙の隙(ひま)に巾着に包まれた金一包みを取り出し
嫁、イヤナニ嫁御と思うてやるのではない、ただいまのお礼のため、是を路銀にちつとなと遠い所へサアサア早う
と梅川に渡す孫右衛門。親子の名乗りもせず、言葉も交わさず手に手を重ねて今生の暇乞いをする忠兵衛と孫右衛門であった。
成立
近松門左衛門のが竹本座の人形浄瑠璃のために書き下ろした「冥土の飛脚」が好評であった。 その後、「傾城恋飛脚」という外題で上演された別の筋が当たりをとりとりわけ新口村の段が 好評だったという。それを「道行戀三度笠」(あるいは「道行三度笠」)として常磐津で外題をつけて上演したもの。
作者
作曲:五世岸澤式佐
初演
1841年(天保12年)五世岸澤式佐の曲により河原崎座で初演とされている
山あげ祭の音源がありますので掲載します。